『神の名は。』
昨年、映画『君の名は。』を見た。最高に良かった。
肉体の宿った僕らにとって、「君は誰か?」ということは最高に重要なことだ。
誰とパートナーと組み、陰陽和合を結ぶか、全てがそこで決まる。
誰でも良いというわけのいかない。
合わない交わりは、お互いに波動を落とすことになり、地球の波動も落とす。
映画『君の名は。』では、陰陽の和合を男性と女性の入れ替わりで表現をしていた。
三葉と瀧でなければ意味がない。
他では駄目だ。
現実で君の名に拘ることは重要だ。
その拘りが生きる醍醐味とも言える。
話を本筋に戻す。
「神の名は。」はどうか?
最近、これがどうでも良くなって来た。
神は意識体だ。
肉体を持たない。
なので、Aという神とBという神が場を共有すると重なってしまう。
人間がその光景を見ると、その状態をA神と感じる人もいれば、B神と感じる人もいる。
また、重なった部分に反応して、C神と感じる人もいる。
人間がやってしまうのは、「どの神がどうか?」という論争だ。
「Aだ。いや違うBだ。何を言ってんだよ、Cに決まっている。」とやる。
これ何の意味もない。
争いの波動を生み、地球の波動を下げることになる。
神の名は、どうでもいい。
※
僕は神社を参拝する時は、鳥居の前で合掌する。「参拝に来ました。宜しくお願いします。」と心の中で唱える。
そして、自我を折り、全てを委ねる。お願いことをはしない。
すると、神が引っ張ってくれる。神と向かい合うことになり、自然な形で神との交流が始まる。
そのまま、あるがままの姿でいると、神が「おー、よく洗心しているのー。この波動を使ってみろ!」をいう感じ、その神の波動が体に入ってくる。波動を授かることになる。
そして、参拝を終える。
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今僕らが生きている現実の世界で見えるものは、内なるものの投影である。
外に見えるものは、自分の波動にあったものを引き寄せている。
なので、起きることは自分が起こしている。
全て自己責任だ。
誰の責任にもできない。
神社参拝し、神から波動を授かると、一時的に自分の内側の波動が変わっている。1レベル高まっている。
当然、外側も変わる。1レベル上の出来事が起こる。それは、得てしてそれは問題ごとだったりする。
「さあ、どうやってこの問題を解決するか?」
神はそこを見ている。
俺は、頭と体を使って必死に頑張る。
そして、無事に問題ごとを解決する。すると、1レベル上の波動が身に付いていることに気付く。
また神社に呼ばれる。いつものように参拝すると、また神が現れる。
「おー、良くやったな。今度はこの波動を使ってみろ!」という感じで、また1レベル上の波動を授かる。
そして、参拝後の日常の中で問題ごとを解決する。
この繰り返しだ
僕にとっての神はこんな感じで、神の名は、僕だけの世界の話だ。
僕の中では、どの神からどんな波動を授かったかということは意識しているが、他の人と神の名を論じることはしない。
神社へ複数の人でいけば、それぞれ違った神が対応することもあるし、祭神と違う神が出てくることもある。
神の名は、あまり重要ではない。
僕が言いたいことは、神の名を探索するより、受けた波動をどう使うかということの方が重要だということだ。
「どの神社にどの神が宿っている…」、「○○という神からメッセージが降りた…」、そんなのどうでもいい。
君の名には拘るが、神の名はどうでもいい。授かる波動、授かるメッセージにこそに興味がある。
どんな神と出会い、どんな波動を授かるのか、それが神社巡りの醍醐味だ。